2011年1月29日土曜日

修道者の独身について4

では、高位聖職者は皆貞操を守ったかと言えばそうでもない。
ただただ、重要なのは、その後なのだ。以前妻があったというなら、ペテロでさえそうだ。

ペトロには妻子があったが、イエスは使徒の頭とした。
アウグスチヌスも、間違いを犯したが、純潔に生きた。
教皇や聖人も結婚していた。
教皇フェリックス三世は2人子どもがあった。その直系に教皇グレゴリオが生まれる。
司祭ユクンドゥスは教皇ボニファシオ一世の父。
司祭ペトルスは教皇アナスタシウス二世の父。
教皇ホルミスダスは教皇シルヴェリオの父。

結局、修道者が妻子と一緒に暮らしても、禁欲すればいいじゃないか、それが、今の最低のカトリック教徒としての許される限度だ。

しかし、一つの家に妻子があり、禁欲していても、私たちとおなじように、妻の愚痴に悩み、収入が多いだの少ないだの、子どもの養育で悩んだり、孫ができたと喜んだり、そんな修道者から聖体をいただけるか?

昔、信者を平信徒と言った。いい言葉だと思う。信徒と修道者は格が違う。私は思う。

もっとも、ヨセフさまも、マリアさまと禁欲のうちに暮らしたのでした。

それにしても、禁欲に暮らすことは、神の恩寵だと思う。それは特別の人に与えられた特別の能力だと思うし、それをもって召し出しというのだ。神と人に身を捧げる、たいへんな力なのだと思う。

聖レオは、アナスタシオへの手紙で
「もし結婚生活の快楽にまだ終止符を打っていないのであれば、それがだれであろうとも、レビ的つまり司祭、または司教の職の尊厳にふさわしくない」
叙階は、禁欲、特に性的な禁欲を保てる特別の人だけが受ける秘跡だと思う。

教皇フェリックス三世も、教皇アナスタシウス二世も、教皇レオの禁欲の教義を変更しなかったのである。

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