2011年1月29日土曜日

修道者の独身について5

お釈迦様も出家にあたって家族を捨てた。
神道でも、伊勢神宮の儀式の前には、神官は別居する。清める。それが、ただ同居して禁欲するのではなく、世間から隔絶して生活するのだ。

カトリック教会も、修道生活を見直すときが来るのだろうか。私は絶対反対だ。
たとえ司祭不足となっても、教会はその美しい光を失ってはならない。
教会の光は、一つは修道者だ。禁欲をなくしたら、それは修道者ではない。
禁欲生活をします、っていう本当か嘘か分からない条件を付けて、家庭生活を認めて叙階させる、その歴史的な事実をまたやるという時代が来るのだろうか。そうなら本当に悲しいことだ。
修道者は立派な人。特別な人。それは純潔という岩の上にある。
教会の泉だ。
修道者の貞潔という、とんでもなく難しい原則を守り通しているからこそ、美しいのだ。
何か信じられるのだ。
修道者は、カトリック的にいえば、神と私たち信徒の間にある通訳だ。

禅宗で、陰ながら汚い仕事もいとわず、誰にも知られず、清貧に生きる僧の行いを「陰徳」と言っている。カトリック修道者も同じだ。
彼らの存在こそが、宗教を支えている。
カトリック的に言えば、修道者が生活を家庭的にしたら、誰が取り次いでくださるのだろうか。もはや、死者しかいないではないか。

修道者の独身について4

では、高位聖職者は皆貞操を守ったかと言えばそうでもない。
ただただ、重要なのは、その後なのだ。以前妻があったというなら、ペテロでさえそうだ。

ペトロには妻子があったが、イエスは使徒の頭とした。
アウグスチヌスも、間違いを犯したが、純潔に生きた。
教皇や聖人も結婚していた。
教皇フェリックス三世は2人子どもがあった。その直系に教皇グレゴリオが生まれる。
司祭ユクンドゥスは教皇ボニファシオ一世の父。
司祭ペトルスは教皇アナスタシウス二世の父。
教皇ホルミスダスは教皇シルヴェリオの父。

結局、修道者が妻子と一緒に暮らしても、禁欲すればいいじゃないか、それが、今の最低のカトリック教徒としての許される限度だ。

しかし、一つの家に妻子があり、禁欲していても、私たちとおなじように、妻の愚痴に悩み、収入が多いだの少ないだの、子どもの養育で悩んだり、孫ができたと喜んだり、そんな修道者から聖体をいただけるか?

昔、信者を平信徒と言った。いい言葉だと思う。信徒と修道者は格が違う。私は思う。

もっとも、ヨセフさまも、マリアさまと禁欲のうちに暮らしたのでした。

それにしても、禁欲に暮らすことは、神の恩寵だと思う。それは特別の人に与えられた特別の能力だと思うし、それをもって召し出しというのだ。神と人に身を捧げる、たいへんな力なのだと思う。

聖レオは、アナスタシオへの手紙で
「もし結婚生活の快楽にまだ終止符を打っていないのであれば、それがだれであろうとも、レビ的つまり司祭、または司教の職の尊厳にふさわしくない」
叙階は、禁欲、特に性的な禁欲を保てる特別の人だけが受ける秘跡だと思う。

教皇フェリックス三世も、教皇アナスタシウス二世も、教皇レオの禁欲の教義を変更しなかったのである。

修道者の独身について3

修道者の尊敬のためにも、教会の維持のためにも、聖公会と妥協してはならないのではないか。聖公会信者が改宗するのはよいが、カトリックの伝統や規則に、聖公会の規則を入れるのであれば難しい。ましてやミサ聖祭は。
司祭が結婚しているかどうかは問題ではないかも知れない。しかし、禁欲的であるかは重要だと思う。

聖エピファニウスは、禁欲に価値を置いているのだ。
禁欲が無くて、どうして霊的な力があろう。4世紀から言われる。
修道生活ができるかどうかの重要な能力の一つは、禁欲ができるかどうかである。

修道者の独身について2

 すでに、紀元4世紀、聖エピファニウスは聖職者は禁欲的であるべきだと言っている。信徒が多くて、司祭が少ないから仕方ないというようなことも言っているそうだ。

この今の時代もそうなのだろうか。
人が少ないから規律を緩めて多くするのか。
信者獲得や司祭養成がねらいか。

修道者の独身について1

私が修道者を尊敬する大きな一つの理由は、修道者が独身であることにある。
禁欲という意味での独身である。
キリストが、人々のために独身であったように。
司祭もそのキリストの道を歩むものとして、独身でありたい。

カトリックは、ペテロがはじめのローマ法王である。ペテロには妻子があったようだ。
ルカ18章、ペテロ「わたしたちは自分のものを捨ててあなたに従って参りました」
イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたものはだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」
パウロも妻帯者だろうし。過去はどうあれ、叙階の条件として禁欲しなければならないというわけだ。

アングリカンとカトリック

 2009年、イギリス国教会の Traditional Anglican Communion が、カトリック教会への改宗が行われた。しかし、私が知る限りでは、改宗ではなく、混入だ。カトリック側が教会規則を変えて、Anglicanの伝統を入れたミサ等を受け入れるからだ。
 しかし、私は気にしていなかった。身近でないから。ところが、教区に聖公会からの改宗聖職者が誕生する。こうなると心境は複雑だ。彼は妻子があるのである。
 妻子ある司祭。
 そもそもカトリックからの分離は、ヘンリー8世の離婚問題だから、リベラル派当たり前だが、
「キリスト教本来の教義は非常に一致している」
との神父さまのお話。ただ、宗教改革のカルヴィニズムは入っているだろうし、聖公会は、ローマを認めないし、国によってちょっと憲章が違うらしい。例えばA国の聖公会は同性愛を認めるが、B国の聖公会では認めないとか。
 そもそもカトリックへの改宗者が増えたのは、女性司祭、同性愛、シングルマザーなどを許容する、アングリカンのリベラル化への抵抗だろう。Traditionalなアングリカンはそれで結構だが、カトリックでそのミサ等をどう受け入れるのかなあ。
 教会法はどうであっても、私は、妻子ある司祭からより、独身の司祭から御聖体を拝したい。

2011年1月22日土曜日

株高と空売り

最近株が高い。アメリカが株高だから。
しかし、日本は売りだと思う。
理由は、

1 税収などの歳入は37兆円。公債による歳入が44兆円。累積債務が900兆円にならんとしている。つまり、全収入37万円の家で、44万円借金をし、これまでの借金が900万円ある。

2 今の日本の政党では対策を講じられない。あまりにもポピュリズム的で、将来を考えず、ただ当選し権力を得ることがねらいの国会議員たちには、対策を打てない。

3 いずれ日本の債券が売れなくなる。金利が上がる。ますます借金は増える。税収のほとんどが借金の金利にならんとしている。そのとき、強烈なインフレしか打開策がない。

今朝の朝日新聞では、次のように伝えた。
・2009年度に支払われた生活保護費が3兆円を超えた。
・病気や障害がなく、働ける年齢の世帯は23万世帯で、2年で倍増した。
・大阪市は1年3,000億円かかる。

私は、増税と、生活保護法の改正など、社会保障制度改革をやるしかないと思う。
・消費税は20%にして、食料、医療、教育、衣料を無税とすべきだ。
・「最低限度の生活を保障」というのを下げるべきだ。
・働けるのに働かない場合は、収入が無くても、保護支給を切るべきだ。
・贈与税、相続税はもっと取るべきだ。

しかし、それをやろうとする政党が一つもない。政府は
「保護受給者の就労と自立を促す」
などとたわごとを言っている。そんな時間はない。このままいけば、数年で破綻する。今まさに、薄氷上を歩いているのに、与党は子ども手当、高校無償化、高速道路1,000円と金をばらまいて、日米安保は揺らぎ、できもしない政策を公約して議席を獲得して公約違反を謝罪もしない。

2011年1月16日日曜日

今日の説教

ヨハネ1・29から34

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」

見よ、が大切。洗礼者ヨハネがイエスに注意を向けている。頭で理解するのではなく、姿をしっかり見なさいと。それだけを見つめなさいと。

平和の賛歌で、「神の子羊、世の罪を除き給う主よ、我らを憐れみたまえ。」と毎回言っている。
わかりやすい言葉ではない。
「神の子羊」は、旧約の出エジプト記から、子羊は神の救いのシンボル。
イザヤでは、「子羊のように口を開かなかった」と。旧約ではイエス様の十字架を最も考えさせられるところ。

2011年1月10日月曜日

男の化粧

男が化粧する時代。
男がはげを気にする時代。
男が肌を気にする時代。

2011年1月2日日曜日

博打の資質

私には博打の資質がない。だからといって、大損するわけでもない。
若いときのパチンコは勝っていたが、麻雀などは接待レベル。
年末年始の麻雀は、2回やっていずれも中位である。
投資もそうだが、大損しない大得もしない。
こういうものは持って生まれた
「資質」
があると思う。私のような臆病は博打に向いてない。しかし私は好きだなあと思う。博打。

今年は株価の上昇を予測する評論が多い。しかし、私は逆で、ちょっと上がってもいずれ下がると思っている。上がるなら売りたい。
買いは、医薬品業界と商社。
売りは、鉄鋼と小売業界。特に小売りはよくないだろう。サークルkサンクス、今売ればとれるだろう。
相場としては、ドルは強い。基軸は揺るがない。
資源は高い。特に油。
日本は弱い。経団連の挨拶では、今年の末は景気上昇という人が多いが、政治がこんな状態では無理だ。