2011年4月29日金曜日

日本語

 負けた戦争の影響で、教育は「国」をおろそかにしてきた。
(アメリカの軍事的な庇護があったから成功したが、普通なら侵略されている。戦後の自民党政権と官僚の優秀さでもある。)
 おそらく私たちは最も日本という国を意識しない世代だ。愛国心という狭いものではなく、日本人としてのアイデンティティーが不安定だ。
 しかし、私はつくづく日本人としての自分を意識しなければならない。それは、日本語がどれほど私に重要かということだけをとっても明らかだし、キリスト教徒としての自分の立場がしっかり根を張っていない一つの要因でもある。
 日本語が私の精神を包み、はぐくみ、礎となっている。日本語をなくして私はないし、私は日本人で、日本語を使い、思考しながら、それでもイエス様を師として歩んでいきたい。キリスト教では(特にミサ典礼が重いカトリックでは余計だが)、日本語になじまない歌を歌っているし、式の進み方が全く日本的ではない。典礼聖歌は、日本人が作曲して本当に美しいし、内容を感じさせる素晴らしく日本的なものだ。しかし、その歌詞は詩篇からとられているから、どうしても風土、文化があわない。
 仏教のお経よりはましだと、シスターと話していた。なぜなら、旧約聖書も、日本語訳されているがお経は漢文だから。

 日本語、それは私にとって非常に重要な言語だ。歴史が古く、文化そのものだ。そこには日本人の歴史・魂が込められている。

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