2009年11月17日火曜日

切支丹もの

芥川龍之介は、たくさんの切支丹ものを書いた。
このごろは、それらをまた読んでいる。
奉教人の死、邪宗門、南京の基督、神神の微笑、西方の人・・・
みな聖書をかなり読み込んでいなければ書けない。

彼のキリスト教の見方は
「狂信者の心理のように病的」(西方の人)
によくあらわれている。宗教を客観的に見ている。

キリスト教に限らず信仰は、知識、哲学、倫理学、神学、そういうものとは違う。
芥川龍之介には「自分の生き方とキリスト教」、そういう見つめ方がない。キリスト教が自分の生き方とかけ離れた対象になっている。

自死の前日まで書いていたのも聖書をニヒルに見た「続西方の人」であった。
それでいながら、死の床には聖書を置いていた。離れられなかった。
ここが芥川の悲劇だ。

同じように聖書を読み込んでいたと思われる宮沢賢治の書は美しくけなげでさわやかだ。
この違いは何だろう?

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