2013年5月4日土曜日

日本人と他国の信者数の比較はできない


 教会では、一般の日本の家庭の裏に神社があり、狐を祭っているのがあたかも低レベルであるかのような話題が出され、笑いで集結するのだが、そこにはキリスト教の優位性に酔っている面がある。
 実は、これはキリスト教と狐の神様、徳川家康を神として東照宮、そういう比較をしている大問題をはらんでいるのである。比較にならないものを比較している。学問をしている者が、語学と物理学をどちらが優等であるか論じているようなものだ。
 私は、日本の神様の信仰のあり方と、キリスト教の神の信仰のあり方を、信じている、という同じ言葉で言ってはならないように思う。比較する土台が違うのだ。
 
 
 たとえば、家庭内に神様、いわゆる神社系統があって、仏壇もあるというのは、にほんにおいてその歴史を考えれば何らおかしいことではない。そこをとりあげて、一神教のキリスト教徒が日本人の信仰を批判したら、それは的外れと言わねばならない。
 
 
 ある人が、○○だったら、キリスト教を信じてもいいかなと思うとか、○○だからキリスト教よりも仏教を選んだとかいう話を聞くと、このあたりがキリスト教の信仰観と違うと思えてならない。
 私が、ではなくあちらがなのであって、自らキリスト教を他宗教と比較して選び抜いたというのは、あまりにもキリスト教の世界とは違ったものである。もっとも、仏教の開祖は、あちらから来るもの、という世界観をもっているのだから、宗教というのは本来はそういうものなのかも知れない。
 日本人は、何の宗教を信じているのか、アイデンティティーがないという。昨夜見た映画「俺たちに明日はない」でも、若者同士の自己を紹介する日常的な会話で、父が牧師であると。その宗派を問われて「バプテストだ」と答える場面があった。
 
 多くの日本人は、宗教を日常的なものとは考えていない。イタリア人神父の話では、イタリアでも若者の教会離れが進んでいるとはいうが、日本人とは比較にならない信仰心はあるだろう。しかし、日本人が無宗教であるとも言えないような気がする。まして、祈り、という姿勢にあっては、多くの日本人が祈りを大切にしている。
 
 私は、かつて外国人神父が神社の前で十字を切る姿に感銘を受けたが、仏教僧が神社を否定するだろうか。神職が仏教を否定するだろうか。
 
 私の言っている、私たちキリスト者の言っている神、信じる、信仰という概念、定義と、日本人の多くが考えている、文化としてもっている、神社仏閣での信仰とは大きな違いがあると思う。同じたぐいのものではない。比較できないものだろうと思うようになった。このごろは、神、というものが、日本人の考えているものと、キリスト教では違うものかも知れないと思うようになった。信仰はありますか、と問われても、答えられないはずである。日本人にはヨーロッパ的な信仰という概念がないのだから。神棚を掲げていても、葬式で僧侶に拝んでもらっても、日本人にの神々は、信仰、というものに当たらない。

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