2012年7月2日月曜日

あの人が信仰しているものだから

内村鑑三と新渡戸稲造を放送していた。 共に強烈な人だ。 内村は聖書と自分ということを言っている。教会を介さない。 新渡戸は、純粋なキリスト教像を求めてクエーカー教徒の姿に感心して入信したわけだ。 ところで、 先ほど私の霊名、使徒トマの祝日が明日ということでおめでとうと、老神父から電話があった。 私が散歩に行かなかったのは偶然か、神の仕業か分からない。電話に出られた。 神父様は85歳、ダイヤモンド祝い叙階60年である。 この人は人生をかけて信仰の道を歩んできた。非常に強い人生だと思う。 日本に来た多数の宣教師もそうだ。人生をかけて。 純粋で、清く、貧しく、単純で美しく、無欲で、財を持たず、学問も名誉も縁なく東洋の果てに生涯をかけ、神様の言うままに赴いて宣教してきた。 そういう視点では、司祭として立派というのもあるけれども、もっともっと自然で柔軟で、弱そうでかなり強い存在はシスターやブラザーだ。シスターが世に働く(行動、労働しないことも含めて、精神的な影響力も含めて、)姿は、非常に宣教的だ。 この人たちが信仰しているキリスト教だから、だから信仰してみたい。人生をかけて美しく、並の精神ではできない道を歩んだ人たち。これは神様がなさったのではないか。 今そういう気持ちだ。井上ひさしもどこかでそう言ったと読んだことがある。 そういう信仰の在り方もあったって良いだろう。 ところで、内村や新渡戸、自分で宗教を選んだ、そんな間違いを感じる。 宗教は自分で選べるものではないだろう。あちらが私を選ぶのである。 それが難しい、霊、とか風とか、いわれるものだろう。

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