2012年5月19日土曜日

免罪符 ルター 法然 親鸞 一遍

免罪符は宗教改革の発端になりました。話題になる名称がどうであれ、日本語訳がどうであれ、免罪符と言おうと贖宥状と言おうと、この問題は批判の本質を外れて日本の学校教育で教えているのではないかと思えるのです。だいたいカトリック教徒はおとなしいから、あまり文句も表面に出ないし、受け入れる、御摂理という姿勢が、政治的なパワーのなさも関係していると思ってしまうのですけれども。
 教科書では、簡単に言うと
「免罪符を購入すると地獄に行かずに済む」
と書いてあるわけだが、本質は違う。

 仏教でもおよそ普遍的な宗教は、現世の罪ということを考えているし、カトリックの大切にしている聖書だって、「行い」を重視しているのであって、何でもかんでも救われてしまうわけではない。

 問題は、神様との関係における罪、その意味をかみしめないと、日本人にはわかりにくい。
 人に悪いことをしてしまって、その人に、弁償とか賠償するというのとはちょっと違うのです。
 私たちカトリック教徒は、世界中で上の代理人である神父様に罪を告白して、赦しを願う。そして、神父様は罪の償いを私たちに命じます。この、罪の告白は、やったものしか分からないだろうが、非常にすがすがしいものです。何もどうしようもない、元に戻ることもできない、そんな罪を感じながら生きていていて、それを許してもらえた、もらえるかもしれない、そんな心もちというのは、経験しないと分からないでしょう。
 私たちは、自力で何かを決めて償うこともあるけれども、何か大きなものからの命令、大きなものの受け皿の上で動いているという安心感が必要な、そういう存在なのかもしれません。
 そして、償いの方は、わたしが大きな罪を感じているときに、神父様から言われる償いがあまりにも簡単な、軽いものだったらがっかりするほどです。お祈りしなさい、ロザリオ10回ですよ、と言われたことも、今すぐマリア様の前で、主の祈りを唱えて振り返るように言われたこともあります。うれしかったのは、十字架の道行きをなさい、ということでした。時間がかかるからです。それ程私の罪は償われたと言うことです。

 カトリック教会では、すでにルターより前何百年から「償い」をしていたようです。でもまずその前に、神様からの罪の赦しが神父様をとおしてあって、その後に信者は償いをするのです。ですから、簡単に免罪符を買えば天国へ行くというものではないのです。大変な寄付をしたとしても、その前に赦しがなくてはならない。
 仏教だって同じでしょう。例えば、浄土宗でも、開祖法然が、観想念仏を否定して、金がなくても寄進しなくても、極楽浄土へ行けると説きました。貴族だけが極楽へ行くはずはないというわけです。ルターが、どんな人だったのか、私は勉強していないから分かりませんが、鎌倉仏教のようなおおらかな形を、プロテスタントは取らなかった、そういう方向へ進まなかったように見えます。例えば政治的にも、プロテスタントの方が積極的だろうし、祈りというおもねる姿勢はカトリックの方が強いのではないか。原理主義的なキリスト教も、むしろカトリックでは小さい意見なのではないかと思います。
 鎌倉時代に比叡山延暦寺から出た法然は、天台宗から浄土宗を独立させたのですが、キリスト教におけるプロテスタンティズムとはかなり違うように感じます。その辺は勉強してみたいところです。法然は、阿弥陀仏の名前を唱えるだけ。阿弥陀様に帰依(南無)する。一日何万回も唱えた法然でした。
 親鸞になると、信じていればいい、唱えるのは一回でもいいというわけです。妻帯もしたし。こうなると、やはり、私はどうも行けない。神父様が妻帯していないということが、私にとって非常に大きいからです。シスターに夫がいたら、考えるだけでぞっとする。
 また別の方向だけれども、私は時宗の一遍にまた魅力を感じて、もっと勉強したい人です。かれは、もう、信じることすら必要ないといったのですから。阿弥陀如来は信じる人と信じない人を差別するはずはないと言ったのです。信じる、信仰を持つというのもお恵みで、お恵みがない人、環境にない人さえ、神様は見捨てないと私も思う。

 免罪符は、罰をゆるすのではなく、罪を赦してもらった後の償いの行いなのです。免 つぐない 符なのです。償いとしての、寄付、符を買うこと、金を入れることなのです。
 お札を買って、それで罪が赦されるなんてものではないのです。

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