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政府の教育再生会議は、第3次報告を決定した。飛び級や大学への飛び入学を促すための「6・3・3・4制」の弾力化や、徳育の「教科化」を明記した。学校の外部評価を巡っては1月の第1次報告に盛り込んだ専門機関の設置を見送り、「第三者評価のガイドラインの作成」を提言するにとどめた。再生会議は来年1月、最終報告をまとめる。
文部科学相の諮問機関・中央教育審議会教育課程部会は、学習指導要領の改定方針をまとめた答申素案を大筋で了承した。道徳の教科化については「さまざまな意見が見られる」と両論を併記した上で、「道徳教育を充実・強化すべきという認識では一致している」と盛り込んだ。結論が出ていなかった中学校の選択教科については、標準授業時間から外すことが決まり、事実上廃止される。ただし、各学校の判断で、標準授業時間の枠外ならば実施できる。
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ひどいもんだ。
1 道徳教育は、根本的なところでは学校ではできない。個人の信条にかかる部分を強制できるのは親権者しかいない。それを教科にしようとは何ごとか。
命をいとおしまなければならない、この場合「ならない」と教えられるのは親権者しかいない。法規制の学習なら学校でもできる。しかし、法で規制していくことは大変な社会で、金がかかりすぎる。米国のようになる。すぐ訴訟だ。弁護士の数も裁判所の数も、裁判官も10倍必要だ。道徳の教科化など、何を考えているのか。哲学、倫理学、宗教学、生命科学、心理学、歴史学の専門家が黙っていて良いのか。道徳は個人の信条の深いところにある。あの能力高くなさそうな米大統領でさえも言っているではないか。
国が家庭教育に口を出してきた、最近の文科省の動きあたり、非常に変な世になったものだ。
2 学校教育の第三者評価は、ほどほどでよい。その評価組織や評価者に強権は持たせない方がよい。校長の権限が100なら、第三者は1くらいでよい。世間の人はおおかたが学校教育の素人だからだ。権力を持たせてはならない。例えば、「楽しい学校」にしてほしいと評価委員会からいわれ、おもしろおかしいが中心の学校となり、学力が低下しても良いのか。学問とはなんなのか。人格の完成を目指さなくても良いのか。こんな答申はバカらしくて読むのも嫌だ。
それもそのはずだ。この国は政治家にお笑いタレントがなっていく国なのだ。学校教育にまったくの素人が口を出し、学校教育をゆがめていくことも十分ある国だ。お笑い政治家を選んでいるのは国民だ。
かつてヒットラーを選んだのもドイツ国民だった。ドイツのファッショは、軍事政権のクーデターでできたのではない。国民の民主的選挙の結果だった。
3 総合ができた理念はなんだったのか。選択教科の理念は何か。理念が定着しないうちに学習指導要領が変化する。総合の時間はとうとう英語に侵略される。時数が減る。クラブ活動の理念は何か。時数からはずれたら、勉強していない管理職の学校は、みんなやらなくなるのだ。理念などすっかりどこかへ追いやられてしまう。選択教科も総合やクラブ活動と同じ運命をたどるだろう。
4 教育再生会議は素人の集まりだから、ノウがないのは分かる。たいしたことはできないだろうと思っていた。しかし、中教審教育課程部会は、なんたる低レベル。学習指導要領をどうしようとしているのか、見えてこない。両論併記というのは、何にもないのと同じ。だれでもできる。その道の専門家でなくてもできる。
ばからしくて。
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