シスター武が洗礼名を考えてくださる。 シスターが考えてくださったのだから、そのまま受けよう。
7月3日使徒聖トマ(S. Thomas Ap.)
トマは、ガリレア生れでジェネザレト湖の畔に住み、漁りを生業としていた。
イエスが福音を宜べ伝え始められた頃弟子となり、十二使徒選定の際はその列に加えられ、常に主の傍離れず仕えた。
トマは剛気であった。主が死せるラザロを蘇らす考えから、ベタニアへおいでになろうとした時、他の使徒達は一生懸命引留めた。ベタニアは主の敵ファリザイ人達の縄張内で、見つけられたら生命にかかわる心配があったからである。ところがトマだけは凛として言った。「さあ、行って一緒に死のうではないか!」(ヨハネ11:6)
最後の晩餐の時にも、主が別離を告げられると、他の弟子達は悲しみに心くれて口を利く事さえ出来なかったのに、トマはなお平常心を失わず、汝等はわが行く所を知り、又その道をも知れりとの主の聖言に対し「主よ、私共は貴方がどこへおいでになるか存じません。ましてその道などどうして知って居りましょう」と卒直に申し上げた。「我は道である、真理である、生命である」という御答えはその時のことである。
トマは、主が捕われ給うと他の弟子同様姿を隠した。しかも彼は人と離れて逃げていたので、主が復活して弟子達に現れた時も、帰り着いておらず、姿を拝むことも出来なかった。その話を弟子から聞かされても、信じなかった。疑い深いとも言えよう。何事も徹底的に調べて見なければ気がすまぬ心の慎重さを証するものでもある。彼は他の使徒達に言った「諸君はよみがえり給うた主を見たというが、果してそれは真の主であったろうか。私はその手の釘痕を見、その釘の所に私の指を入れ、その脇腹の傷に私の手を入れて見なければ信じられない」と。もちろん彼は主の復活を全然信じないというのではない。ただ信ずるための証拠がやや不足していると考えた。疑惑をさしはさんだだけ、他の人々のような平安と歓喜とに恵まれなかった。
八日目に至って再び主が来り給い、トマに向って「さあ、お前の指をここに入れて私の手を見、また手を伸ばして私の脇に入れ、早くお前の疑いを晴らすがよい」と仰せになった。トマはもう一言もなく、ただただ「わが主よ、わが神よ」と申し上げるほかはなかった。
その後トマは他の使徒達と離れず、主の御昇天にも立会えば聖霊をも蒙った。布教を始めることになると、彼は遠い東洋諸国を志し、ますパルト人に福音を宣べ伝えた。彼がそれからどこまで来たかは明かでない。しかし当時は既にローマ帝国とインドとの間に通商貿易が開けていたから、彼がインドに至り、マドラスのマイラプールに伝道したという伝説も無根とは云い難い。トマはその布教熱心の故に偶像教徒の憎悪を受け、槍で突き殺されて他の使徒達と同様に殉教の死を遂げた。彼の遺骸は後シリアのエデッサに移され、今なおそこに保存されている。
使徒聖トマは信仰が薄いと、信者の間にいつも評判がかんばしくないが、聖アウグスチノの言ったように、トマの不信仰は多くの人々の信仰を固めた。彼が疑惑を抱いたばかりにイエス復活の明らかな証拠が得られたからである。またもし人あって「キリストの弟子は皆無学な者であったから、何でも無批判に信じたのだ。キリストの復活などは迷信に過ぎない」というならば、我等はトマの例をもってこれに反駁できる。トマの言った「わが主よ、わが神よ!」という言葉には、聖会から購宥が附与されており、カトリック祈祷文の聖変化のくだりに用いられているが、これは天主に対する信仰のこよなき宣言である。
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