お釈迦様も出家にあたって家族を捨てた。
神道でも、伊勢神宮の儀式の前には、神官は別居する。清める。それが、ただ同居して禁欲するのではなく、世間から隔絶して生活するのだ。
カトリック教会も、修道生活を見直すときが来るのだろうか。私は絶対反対だ。
たとえ司祭不足となっても、教会はその美しい光を失ってはならない。
教会の光は、一つは修道者だ。禁欲をなくしたら、それは修道者ではない。
禁欲生活をします、っていう本当か嘘か分からない条件を付けて、家庭生活を認めて叙階させる、その歴史的な事実をまたやるという時代が来るのだろうか。そうなら本当に悲しいことだ。
修道者は立派な人。特別な人。それは純潔という岩の上にある。
教会の泉だ。
修道者の貞潔という、とんでもなく難しい原則を守り通しているからこそ、美しいのだ。
何か信じられるのだ。
修道者は、カトリック的にいえば、神と私たち信徒の間にある通訳だ。
禅宗で、陰ながら汚い仕事もいとわず、誰にも知られず、清貧に生きる僧の行いを「陰徳」と言っている。カトリック修道者も同じだ。
彼らの存在こそが、宗教を支えている。
カトリック的に言えば、修道者が生活を家庭的にしたら、誰が取り次いでくださるのだろうか。もはや、死者しかいないではないか。
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