2009年2月15日日曜日

憐れに思い まず慈愛の心を発し 利行に催さるる

聖書ではいくつも「憐れに思い、・・・」
というところが出てくる。

福音書ではじめてイエスを主とよぶ場面  ルカによる福音書第7章13節
放蕩息子を待つ父親 ルカによる福音書第15章20節
良きサマリア人 ルカによる福音書第10章33節

よく知らないが、原典のギリシャ語では「憐れに思い」は「スプランクニゾマイ」であって、「はらわたがちぎれる」の意味があるそうだ。
つまり、理屈ではなく自然に反射する心があったのだ。
聖書にはないが、カトリックでは古来十字架の道行きの第6留「ヴェロニカ」が登場するが、この人も、心が彼女を動かした。こういった心持ちに、私は非常に動かされる。憧れる。自分にないからよけいだ。

日本の仏教でも似たところがあって、私はとても好きな場面がある。修証義。
その第四章にしてその崇高な理念がみられる。
有名なのは、「愛語廻天の力あり」だが、私はその後が素晴らしいと思う。

第五節
 愛語には廻天の力あり 愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(オコ)し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生(ジネンシュジョウ)猶如(ユウニョ)赤子(シャクシ)の懐(オモ)いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏(ゴウフク)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(ムカ)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面(ムカ)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。

第六節
 人のよろこびは我がよろこび 利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧(ゼンギョウ)を廻らすなり、窮亀(キュウキ)を見病雀(ビョウジャク)を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単(ヒト)えに利行に催おさるるなり、愚人(グニン)謂(オモ)わくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、爾(シカ)には非(アラ)ざるなり、利行は一法なり、普(アマネ)く自侘を利するなり。

第五節で、まず慈悲の心が先で、それが起きてから次に行動するといっている。第六節の中の「唯単えに利行に催おさるるなり」の部分は、私の中で、キリストの十字架の道行きのヴェロニカの思いと行いに結ばれる。かたや亀、雀、かたやイエス様であるから、比較もどうかとも思うが、共通しているのは、催されたということ。慈愛の心、利他救済。窮亀、病雀を救った利行の心。ただ無心に相手の為によかれとおもう心にひかされて助けた。そこがとても好きな言葉。聖書の「憐れに思い」に通じる思いだ。

学生の頃哲学のF先生に「あなたはどうするかが大事ですよ」といわれ、結局今でもウダウダしている。かわっていない。行っていない。哲学のF先生も美学のI先生も昆虫学のT先生もあちらに行かれてしまった。

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