2013年5月26日日曜日

株価暴落と来週 日経平均 シャープ 東電 野村

株価暴落した先週の木曜日2013年5月23日。終値として一日で1,000円下げた。最大値からの下げは1,500円あり10%であり歴史的にもかなり大きい。安倍総理が登場する前からの長い上げ相場だっただけに、下げが大きいほど今後は上げにくくなる。

日経平均は16,000円を伺うところまで行った。5月23日 木曜 午後からの急落。
5月24日 金曜日は 高く始まったが乱高下。100円ちょっと高いところで終えた。この日、前日終値よりも上げたとはいえ、100円くらいだから、まあちょっと高いところで終わった。

月曜、つまり明日、5月27日か火曜日にはもう一段落ちるだろう。14,000円を割り調整完了という評価もあるが、そうはならないだろう。もう一度落ちたら15,000円前後で膠着状態になり、7月初めか選挙前に大きな底値。自民党は勝つだろうから早く底値になるかも知れない。私のように先行きに楽観している人が多ければ、6月末には底になる。
今回はリーマンとか、震災とか、悪材料ではなく、アルゴリズムの下げ、日柄調整の下げだから、景気先行きの期待は変わらないから、7月末からは上。
この間の木、金で14,000円を割ったから調整完了とテレビで話していた。私はそうならないと思う。

シャープ、東電、野村では、野村は日経以上に下げる。シャープ、東電は、業績からは買えない。値幅が大きい。

2013年5月18日土曜日

アイルトン・セナ

アイルトン・セナ

理想を語ることは簡単だが、自ら実践するのはすごく難しい。
だからこそ、とにかく、どんな時でも、ベストを尽くして生きなければいけない。
その結果、うまくいく時もあれば、そうでない時もある。間違いを犯すこともあるだろう。
でも、少なくとも、自分自身に対しては誠実に、そして、自らの描いた夢に向かって、精いっぱい生きていくことだ。

僕は辞められない。
進むしかないんだ。

自分が感じていることは、正しくないかもしれない。
もしかしたら、自分の五感すべてが間違っているのかもしれない。
だから、常に自分をオープンにしておくんだ。あらゆる情報や、たくさんの知識を、受け入れられるように。耳を傾けて、新しい情報を、聞き逃さないように。
そうすれば人間も、マシンも、徐々に限界を超えていけると、僕は信じているんだ。

2013年5月4日土曜日

祈りの形

いろんな祈りの形があるだろう。
キリスト教では、形があって、何よりイエス様が祈りの言葉を教えているのだから、「主の祈り」は重要だ。
宗派によっては違った型もあろう。
修道会によっては、創始者の祈りがあるだろうし。
形が決まっているカトリックであっても、中にはいろいろな新しい形が出てきている。たとえば井上洋治師は、南無アッバと唱える。

このごろ思うのは、仏教徒やキリスト教徒でなくても、宗教の知識がなくても、何か大いなるものへの畏敬、お願い、お任せ、実践する気持ちや実践そのものが、無力な人の切なる願いが、何か心から訴えて願ったときに、祈りになってくると思う。

日本人と他国の信者数の比較はできない


 教会では、一般の日本の家庭の裏に神社があり、狐を祭っているのがあたかも低レベルであるかのような話題が出され、笑いで集結するのだが、そこにはキリスト教の優位性に酔っている面がある。
 実は、これはキリスト教と狐の神様、徳川家康を神として東照宮、そういう比較をしている大問題をはらんでいるのである。比較にならないものを比較している。学問をしている者が、語学と物理学をどちらが優等であるか論じているようなものだ。
 私は、日本の神様の信仰のあり方と、キリスト教の神の信仰のあり方を、信じている、という同じ言葉で言ってはならないように思う。比較する土台が違うのだ。
 
 
 たとえば、家庭内に神様、いわゆる神社系統があって、仏壇もあるというのは、にほんにおいてその歴史を考えれば何らおかしいことではない。そこをとりあげて、一神教のキリスト教徒が日本人の信仰を批判したら、それは的外れと言わねばならない。
 
 
 ある人が、○○だったら、キリスト教を信じてもいいかなと思うとか、○○だからキリスト教よりも仏教を選んだとかいう話を聞くと、このあたりがキリスト教の信仰観と違うと思えてならない。
 私が、ではなくあちらがなのであって、自らキリスト教を他宗教と比較して選び抜いたというのは、あまりにもキリスト教の世界とは違ったものである。もっとも、仏教の開祖は、あちらから来るもの、という世界観をもっているのだから、宗教というのは本来はそういうものなのかも知れない。
 日本人は、何の宗教を信じているのか、アイデンティティーがないという。昨夜見た映画「俺たちに明日はない」でも、若者同士の自己を紹介する日常的な会話で、父が牧師であると。その宗派を問われて「バプテストだ」と答える場面があった。
 
 多くの日本人は、宗教を日常的なものとは考えていない。イタリア人神父の話では、イタリアでも若者の教会離れが進んでいるとはいうが、日本人とは比較にならない信仰心はあるだろう。しかし、日本人が無宗教であるとも言えないような気がする。まして、祈り、という姿勢にあっては、多くの日本人が祈りを大切にしている。
 
 私は、かつて外国人神父が神社の前で十字を切る姿に感銘を受けたが、仏教僧が神社を否定するだろうか。神職が仏教を否定するだろうか。
 
 私の言っている、私たちキリスト者の言っている神、信じる、信仰という概念、定義と、日本人の多くが考えている、文化としてもっている、神社仏閣での信仰とは大きな違いがあると思う。同じたぐいのものではない。比較できないものだろうと思うようになった。このごろは、神、というものが、日本人の考えているものと、キリスト教では違うものかも知れないと思うようになった。信仰はありますか、と問われても、答えられないはずである。日本人にはヨーロッパ的な信仰という概念がないのだから。神棚を掲げていても、葬式で僧侶に拝んでもらっても、日本人にの神々は、信仰、というものに当たらない。

神仏習合と本地垂迹説と神本仏迹説

私は、日本人の神のとらえ方をいつもいつも考えている。
昨日は、自宅から1時間ほどの山間部に渓流釣りに行った。そこでは、地元の神社のお祭りがあった。近所こぞって集まっているようだった。
一方で、神社の隣に寺があって、そこでも人が集まっている。その人たちは一部同じ人なのである。

神仏習合は、安定した日本の信仰のあり方かも知れない。明治維新の分離の愚行は不幸だった。
しかし、本地垂迹説にしても、神本仏迹説にしても、分離はされていない。仏教はそもそもが他の宗教を包含してしまう性質を持っていたのかも知れない。

もし、キリスト教の土着のために歴史を振り返ってやり直すことができるなら、簡単なのはイエス様を一つの神とすることであった。たとえば、結婚や愛の神とする。そうすれば、日本のキリスト教として土着したと思う。それはすでに、芥川龍之介も、私の言う形ではないが、日本の神々はキリスト教を受け入れないと預言していた。(神々の微笑み)

しかし、キリスト教のそのような形というのは、日本に広く根付いたとしても、信者が増えて流行したとしても、もはやキリスト教ではないのだろう。特にカトリックとは相容れないだろう。今中国では国家によってこの形、別のキリスト教が広まろうとしている。ローマを否定した司教がどうしてかトリックなのか。