執念深く我が極めて強い私だから、聖書の「復讐するは我にあり」は重い。
主日のミサに行かないなんて、珍しいこと。今日は朝からロマ書や申命記などを読んでいた。この箇所は鉛筆で記してある。何度も読んでいる。身につまされる。
ローマ人への手紙(以下、ロマ書)12章19節(フランシスコ会聖書研究所訳)
愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は言われる。『復讐はわたしのすること、わたしが仕返しをする』と書かれているからです。」
同所(日本聖書協会 大正改訳)
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり我これを報いん』」
文語訳というのはどうしてこんなにしっくり来るのだろう。
この『 』は旧約聖書の申命記(カトリックのバルバロ訳では第二の書という)の第32章35節の引用である。
<復しゅうとむくいはわたしのもの>
レヴィの書19章18節でも使われている。(バルバロ訳)
復しゅうするな、あなたの同国民にたいしてうらみをふくまず、あなたに近いものを、自分とおなじく愛せよ。私は主である。
ヘブライ人への手紙10章でも、この第二の書の箇所を引用している。
悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう。
ロマ書の著者、聖パウロは私たちに、
「人が神様を背負ってはいけませんよ、自分が神様になってはいけませんよ、外から自分を見なさい、人がするのではないのです、神様がなさるのだよ」そういう教えているのだと思う。
ロマ書13章4節c(フランシスコ会聖書研究所訳)
権威は、いたずらに剣を帯びているのではありません。悪いことをする者に罰を加え、おん怒りを現すための神のしもべなのです。
私たちは、権威や権力によって罰を加えなくてはならないことが社会的にある。裁判官の判決などはその典型だ。しかしそれは、本当は神がなさることなのだ。
権力者は、神にかわって人を罰するということがあってはならない。権力者は本当に重大な責務を負っている。
人の上司、人を管理する立場の者は、辛いがよく自分を見つめ、自分を律し、それから叱り罰しなければならない。私たちは怒りに身を任せたり、怒りが収まらなかったり、自分を見つめることができなかったりする。ぜんぜんだめだなと思う。
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