テレビを見ていて、おもしろい番組が少ない。
はしゃぎすぎ。
喧騒。
「えーうっそー、すっごーい」
語彙力のなさ。
沈黙の中で、公に尽くす事を考え、自制し、人を思い、神のはからいをおもう。
今、世の中に沈黙が少ない。
静寂が少ない。
祈りの姿が最も美しいとある画家が言っていた。
そこには沈黙がある。
旧軽井沢を歩くと、何時も思う。
「ここはブルジョア的で嫌いだが、静寂がある。沈黙がある。祈りがある。」
2010年8月8日日曜日
2010年8月1日日曜日
ブドウ沢
埼玉県秩父市大滝のブドウ沢の日本テレビ記者の死亡は悲しい。
今回のところは北斜面。反対側の南斜面の沢で釣ったことがある。
記者たちは、軽装で入ったものの、距離がつかめず、取材現場に行けず、午後から雨が降ってきて戻ろうとしたが沢から上がれず、鉄砲水に流されたのではないか。
日本テレビは、半袖Tシャツ装備に問題はない、有能な人材を失って残念だと話した。
私は、水深30cmの川にちょっと出かけるときでも半袖では行かない。
毎年山奥に釣りに入る。1km歩くのに何時間もかかる。夏でも雨なら身体は冷える。水が冷たいときは、入っていられない。歩く下の岩がぐらつくかもしれず、蜂、蛇、熊、猿、鹿を警戒し、何時も緊張しながら慎重に進む。遠くで雷が鳴ったら、上流の雲が暗かったら、さっさと引き上げる。
沢の両側が切り立っている岩だったら、どこからも上がれない。どこから上がろうか、探して歩くにも100m歩いたら増水に間に合わない。
水が出たとき、足下をすくわれたあの恐ろしさ。岩が流れる。取り残されて動けなくなる。
増水した川の恐ろしさは、すごいものだ。
今回の件は可哀想なことだった。
今回のところは北斜面。反対側の南斜面の沢で釣ったことがある。
記者たちは、軽装で入ったものの、距離がつかめず、取材現場に行けず、午後から雨が降ってきて戻ろうとしたが沢から上がれず、鉄砲水に流されたのではないか。
日本テレビは、半袖Tシャツ装備に問題はない、有能な人材を失って残念だと話した。
私は、水深30cmの川にちょっと出かけるときでも半袖では行かない。
毎年山奥に釣りに入る。1km歩くのに何時間もかかる。夏でも雨なら身体は冷える。水が冷たいときは、入っていられない。歩く下の岩がぐらつくかもしれず、蜂、蛇、熊、猿、鹿を警戒し、何時も緊張しながら慎重に進む。遠くで雷が鳴ったら、上流の雲が暗かったら、さっさと引き上げる。
沢の両側が切り立っている岩だったら、どこからも上がれない。どこから上がろうか、探して歩くにも100m歩いたら増水に間に合わない。
水が出たとき、足下をすくわれたあの恐ろしさ。岩が流れる。取り残されて動けなくなる。
増水した川の恐ろしさは、すごいものだ。
今回の件は可哀想なことだった。
復讐について
執念深く我が極めて強い私だから、聖書の「復讐するは我にあり」は重い。
主日のミサに行かないなんて、珍しいこと。今日は朝からロマ書や申命記などを読んでいた。この箇所は鉛筆で記してある。何度も読んでいる。身につまされる。
ローマ人への手紙(以下、ロマ書)12章19節(フランシスコ会聖書研究所訳)
愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は言われる。『復讐はわたしのすること、わたしが仕返しをする』と書かれているからです。」
同所(日本聖書協会 大正改訳)
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり我これを報いん』」
文語訳というのはどうしてこんなにしっくり来るのだろう。
この『 』は旧約聖書の申命記(カトリックのバルバロ訳では第二の書という)の第32章35節の引用である。
<復しゅうとむくいはわたしのもの>
レヴィの書19章18節でも使われている。(バルバロ訳)
復しゅうするな、あなたの同国民にたいしてうらみをふくまず、あなたに近いものを、自分とおなじく愛せよ。私は主である。
ヘブライ人への手紙10章でも、この第二の書の箇所を引用している。
悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう。
ロマ書の著者、聖パウロは私たちに、
「人が神様を背負ってはいけませんよ、自分が神様になってはいけませんよ、外から自分を見なさい、人がするのではないのです、神様がなさるのだよ」そういう教えているのだと思う。
ロマ書13章4節c(フランシスコ会聖書研究所訳)
権威は、いたずらに剣を帯びているのではありません。悪いことをする者に罰を加え、おん怒りを現すための神のしもべなのです。
私たちは、権威や権力によって罰を加えなくてはならないことが社会的にある。裁判官の判決などはその典型だ。しかしそれは、本当は神がなさることなのだ。
権力者は、神にかわって人を罰するということがあってはならない。権力者は本当に重大な責務を負っている。
人の上司、人を管理する立場の者は、辛いがよく自分を見つめ、自分を律し、それから叱り罰しなければならない。私たちは怒りに身を任せたり、怒りが収まらなかったり、自分を見つめることができなかったりする。ぜんぜんだめだなと思う。
主日のミサに行かないなんて、珍しいこと。今日は朝からロマ書や申命記などを読んでいた。この箇所は鉛筆で記してある。何度も読んでいる。身につまされる。
ローマ人への手紙(以下、ロマ書)12章19節(フランシスコ会聖書研究所訳)
愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は言われる。『復讐はわたしのすること、わたしが仕返しをする』と書かれているからです。」
同所(日本聖書協会 大正改訳)
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり我これを報いん』」
文語訳というのはどうしてこんなにしっくり来るのだろう。
この『 』は旧約聖書の申命記(カトリックのバルバロ訳では第二の書という)の第32章35節の引用である。
<復しゅうとむくいはわたしのもの>
レヴィの書19章18節でも使われている。(バルバロ訳)
復しゅうするな、あなたの同国民にたいしてうらみをふくまず、あなたに近いものを、自分とおなじく愛せよ。私は主である。
ヘブライ人への手紙10章でも、この第二の書の箇所を引用している。
悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう。
ロマ書の著者、聖パウロは私たちに、
「人が神様を背負ってはいけませんよ、自分が神様になってはいけませんよ、外から自分を見なさい、人がするのではないのです、神様がなさるのだよ」そういう教えているのだと思う。
ロマ書13章4節c(フランシスコ会聖書研究所訳)
権威は、いたずらに剣を帯びているのではありません。悪いことをする者に罰を加え、おん怒りを現すための神のしもべなのです。
私たちは、権威や権力によって罰を加えなくてはならないことが社会的にある。裁判官の判決などはその典型だ。しかしそれは、本当は神がなさることなのだ。
権力者は、神にかわって人を罰するということがあってはならない。権力者は本当に重大な責務を負っている。
人の上司、人を管理する立場の者は、辛いがよく自分を見つめ、自分を律し、それから叱り罰しなければならない。私たちは怒りに身を任せたり、怒りが収まらなかったり、自分を見つめることができなかったりする。ぜんぜんだめだなと思う。
登録:
投稿 (Atom)