第二コリント12,9
「私たちの力は、弱さのうちに完全にあらわれるからである。」
大津のいじめ自殺事件で欠けていること
文科省の自己責任を問うていない。
研究学校の無意味さ。
人間は誰も見ていない時にどれだけ正しい事ができるかが、立派な人とそうでない人の差だという教育。
第二コリント4,18
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
心で見なくちゃ。本当に大切なことは、目には見えないんだよ。
サン・テグジュペリ 星の王子さま
2012年7月25日水曜日
使徒トマ
2012/07/03 火
使徒トマの祝日
神父様から祝いの電話があった。
「お祈りしておきます」
とおっしゃった。
シスターも神父様も人。だから限界もある。だから問題も感じる場合があるが、その道を歩む人は尊敬に値する。
人を介するというのは初めはいいと、シスターは言う。経済的には貧困に甘んじ、心は豊かである。
シスターとは、修道院の礼拝堂にて座ってお祈りを共にした。
しかし、それが疲れた。あの独特の雰囲気、伝統。祈りのやり方が。意向を長々と喋るのは難しい。シスターたちは、なれている。
神様がなさる。だからいい。任せるという感じなのでつらくはない。
2012年7月9日月曜日
2012年7月2日月曜日
あの人が信仰しているものだから
内村鑑三と新渡戸稲造を放送していた。
共に強烈な人だ。
内村は聖書と自分ということを言っている。教会を介さない。
新渡戸は、純粋なキリスト教像を求めてクエーカー教徒の姿に感心して入信したわけだ。
ところで、
先ほど私の霊名、使徒トマの祝日が明日ということでおめでとうと、老神父から電話があった。
私が散歩に行かなかったのは偶然か、神の仕業か分からない。電話に出られた。
神父様は85歳、ダイヤモンド祝い叙階60年である。
この人は人生をかけて信仰の道を歩んできた。非常に強い人生だと思う。
日本に来た多数の宣教師もそうだ。人生をかけて。
純粋で、清く、貧しく、単純で美しく、無欲で、財を持たず、学問も名誉も縁なく東洋の果てに生涯をかけ、神様の言うままに赴いて宣教してきた。
そういう視点では、司祭として立派というのもあるけれども、もっともっと自然で柔軟で、弱そうでかなり強い存在はシスターやブラザーだ。シスターが世に働く(行動、労働しないことも含めて、精神的な影響力も含めて、)姿は、非常に宣教的だ。
この人たちが信仰しているキリスト教だから、だから信仰してみたい。人生をかけて美しく、並の精神ではできない道を歩んだ人たち。これは神様がなさったのではないか。
今そういう気持ちだ。井上ひさしもどこかでそう言ったと読んだことがある。
そういう信仰の在り方もあったって良いだろう。
ところで、内村や新渡戸、自分で宗教を選んだ、そんな間違いを感じる。
宗教は自分で選べるものではないだろう。あちらが私を選ぶのである。
それが難しい、霊、とか風とか、いわれるものだろう。
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