なぜ神など信じるのか。
安岡章太郎、遠藤周作、加賀乙彦、いろんな人のこの命題に関する文を読む。
よくわかんない。
ただ、利益が見えるということではなさそう。
病気が治るとか、何かうまくいくとか、御利益があるというやつではなさそうです。
真実だから信じる。または、真実そうだから、信じてみようとかね。
そんなところが私の落としどころかな。
それなら、その道を歩む、信じてみる、キリスト教なら洗礼を受けてみるということ、そんないいかげんでいいのかとも思うが、しかたない、こんな生き方しかできなかった。
それにしても、明治、大正とその時代の人たちは、かなりキリスト教に影響されたのに、なぜか洗礼者は少ない。洗礼までいかないが、影響された、引かれ続けた、そんな人たちの文をよく読む。
キリスト教がよくわかる本」というタイトルの書があって、私としては、公共要理よりもよく分かる。でも、カトリックの正統からよしとされるのかどうか。
もっとも、我が国のある枢機卿は、かつて宣教地の文化をも支配する、変えるのがキリスト教の宣教だと言った。それじゃあ、ユダヤ人のメシアという民族宗教の範ちゅうから出られないんじゃないかなあ。
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